2016年7月26日

山田光胤独り言

谷口書店月刊漢方療法より転載

山田光胤
大正13年3月9日生まれ
小学低学年時代に発病した難病が治らず、何度も命の瀬戸際に立ったが、昭和漢方復興の祖、大塚敬節の治療により助けられる。
昭和21年医学部入学後すぐに大塚敬節に師事。
昭和32年、日本最初の漢方施設、中将湯ビル診療所(現金匱会診療所)開設時に医師団に加わって以来漢方一筋に50余年。昭和平成の漢方医学発展のために尽くす。
漢方専門の名医をめざす多くの医師が師事し現在全国で活躍している。
当診療所は山田光胤が日本最初の保険適応の漢方専門診療所として昭和56年に開設した財団法人日本漢方医学研究所附属渋谷診療所を平成22年9月から引き継いで診療を行っている。
高齢のため初診の診療はしていないが、当診療所の医師団は全て山田光胤門下の高弟で構成されている。

山田光胤腹診は診法で治法
漢方の限界?人の限界
随所治療の底力
医者の感じかた、患者の感じかた
人の命運(さだめ)
柴胡桂枝湯
麻黄湯、小青竜湯
五苓散
胡蝶の夢の対岸
ルールと方則
日本人の不幸せ

腹診は診法で治法

春の温かかった日射し、背負ってくれた父のがっしりした背中のぬくもり、そしてお腹に触られた時の先生の手の感触が、何ともいえないこころよさで、安堵感を感じたのが、私が初めて漢方に出会った日の記憶である。それは大塚敬節先生との出会いでもあった。60年以上も昔である。
 
爾来数年、先生の診察を受ける度に、いつも感じたことが、今もよみがえって来る。それは、先生の患者に接する時の温顔と共に、腹部触診を受けた時の感触である。漢方の診察法は四診といわれ、望診、聞診、問診、切診の法があり、切診として主に脈診と腹診が行われる。

このようにみると、腹診は四診のごく一部のようだが、その重要さは多くの古人が認めたところである。そのことをここで論じるのではない。これは日頃考えている腹診についてのひとりごとである。
 
腹診は、診察法である。だがそれだけではない、診察法であると共にそれは治療法でもある。だから、腹診をする上で、最も大切な点、即ち腹診の要諦は、患者に苦痛を与えないことである。更に望むならば、患者に安堵感を与え、こころよさを覚えさせることだと思う。それこそは、幼少の頃に受けた、大塚敬節先生の診察、腹診がそうだったのである。和田東郭は、「腹診は手を平たくして診すべし、然らざる時は病人せつかなかるなり」といっている。病人がせつながるような腹診は下である。
 
『腹証奇覧翼』(和久田叔虎)には、覆手圧按法と三指探按法を図解している。覆手圧按法は、筆者が手掌診と呼んでいる技法で、覆手(手のひら)で軽く肌膚をなでさする法である。三指探按法は、(示指、中指、無名指)をそろえて、そば立て指頭を微動して按し、腹皮内の凝滞、結聚を審かにし、圧痛の有無を弁ずとなっている。筆者は、三指診を、三指指腹診と三指指頭診に分けている。指腹診は、手掌診に準じて比較的広い範囲の部位を探る法で、指頭診は比較的狭い部位、例えば腹直筋、心下部の抵抗、臍下痛(?血)等を探る法としている。

腹診の技法には、その他にも数種のテクニックがある。それなのに、『奇覧翼』の三指探按法のみを行い、然かもそれを誤解して力をこめて患者の腹壁を押しまくるのは、漢方腹診ではなくて、患者に対する拷問だ。

筆者は、小さな孫が、腹痛を訴えたり、激しい咳をしている時など、腹や背中に軽く手を当てたり、軽く押さえたりしてやる。するとそれで腹痛がやんだり、咳が一時止まったりするので、孫は喜んで腹診を要求する。小さい子供の患者で、「先生の手は魔法の手だ」と言う子がいた。腹診は治療法でもある。拷問に使ってはいけない。 
 
大塚先生は弟子達に、ご自分の診察をよく見せて下さった。が、弟子には、診察をした患者にさわらせては下さらなかった。だから、患者は、大塚先生が按腹された感触を、感じながら帰ったと思う。先生の治療は持続したであろう。

私は患者を診察したあと、たいていは弟子達にも、脈診、腹診をさせている。そうすると、嫌がる患者もあるようだが、漢方の診療を速く覚えさせようと思うので、私はそのようにしている。患者が減るかも知れないと思いながら。私が按腹し、患者がその感触を得ても、そのあと又腹壁に触られると、その感触は消えてしまうだろうとも思うのだが。

1997.5月

漢方の限界?人の限界

折角、漢方医療を始めて、初めは漢方薬がよく効いたが、難症の患者が集まるようになったら全く治らなくなって、「難病は漢方では治せないんだ」と言って止めた人があったということだ。医学の偉い先生だが、漢方薬に興味を持ってくれたのは良いが、「漢方の限界はここ迄だ」などと発言することが少なくない。だが、それを漢方の専門家からみると、大抵は見当違いで、私から言わせれば、「それは貴方の限界であって、漢方の限界などとは言わないでほしい」ということである。

数年前だが、小冊子ながら漢方専門の雑誌に東洋医学の研究所に在籍しているほどの人が、漢方の限界に言及して「帯状疱疹は漢方では治らないから、至急に病院の特効薬を使用するように」という記載をしたのに驚いたことがある。
 
つい先頃、頭部、顔面に帯状疱疹が発症し、某病院に受診して発疹は消失した。ところが、頭部に残った神経痛様の痛みが、その病院では治らず、病院を何カ所か変えてみたが、どうしても快くならないと言って、紹介されて来た患者あった。私はその患者さんに、五苓散というありきたりの方剤を用いたが、ほんの僅かな期間にすっかり治ってしまい、大変喜んでもらった。その方は、以後、次々と難症の人を紹介してくれる。帯状疱疹は漢方では無理と思った、東洋医学研究所の学者も、漢方や東洋医学に日が浅い人だったのだろう。

私は幸いに、大塚敬節先生という古今の名医に、長年に亘って親炙し、先生が難病、難症を治されるのを目のあたりに見ることが出来た。だから、漢方とはこういうものだと思っていたし、自分も腕を磨いて難症を治せるようになろうと、自然に考えていた。五苓散は、大塚先生が帯状疱疹によく使われるのを見ていたのである。

人間というものは、自分が見たことのない物は信じられないし、自分の力量など自分では解らない浅はかなものなのだろう。
 
ところで、腹診は診法でもあり、治法でもあると、ひとりごとを言ったことがある。先日、幼い男の子が母親につれられて来院した。ところが、診察室へ入る前後から機嫌が悪くなり、泣きわめき、手足をばたつかせ、診察どころではない。母親が衣服を脱がせようとすると、しがみついて離れない。親は困り果てた顔をしている。

私は「よしよし、そのままでいいよ」と言いながら、子供のうしろから、手を前へ廻して、衣服の中へ手を入れて、お腹をそっと押さえてみた。子供は一瞬、私の手を振りほどくとしたが、直ぐそれを止めて、おとなしくなった。しばらく、子供のお腹に手を当て、手掌で腹全体を軽く押さえらりして、虚実と寒熱を勘案し、桂枝加黄耆湯証と決めて手を離した。すると子供はすかさず腕を振り、母親にしがみついた。患者が部屋から出て行った後で、私の診療を傍らで研修している若手医師が、「よく静かにしていましたね」と、ため息を吐くように言った。

1997-7月

随証治療の底力

先日、旧知の婦人が久しぶりに来院した。「ひどい風邪を引いて近所の病院にかかったけれど、だんだん悪くなって、咳が激しくなり、肺炎になりそうだとも言われたが、1ヶ月かかって少し楽になったので来ました」とのことだった。私は内心「嗚呼、だめだなー」と思ったが、黙って診察して、証に随って投薬した。多分、今頃は快くなっているはずだ。

已に10年近くも、九州から私の診療を研修に来ている壮年の医師が、過日こんなことを言っていた。「医師会の会合の折、近隣の医師から、O先生はいいなあ、新薬も使えるし漢方薬も分かるし、収入が多いでしょうと言われたので、こう言ってやりましたよ。何を言われますか、先生達の方がずっと良いでしょう。風邪の患者が来れば、抗生剤や解熱剤などを出されて、患者さんは1週間も10日も続けてくるでしょう。私などは、漢方薬だけで治療するから、風邪なんか2日か3日で治ってしまって、患者さんはそれっきり来ないから、収入は先生達よりずっと少ないですよ」と。

私は、「そうだそうだ、そうなんだ、漢方を(本式に)やれば、そうなるんだよ。でもそこに、喜びと誇りを感じるから、漢方をやっているんだよ。」と賛同した。世間の人は、大学病院へ行けば、病気は何でも治る。病気になれば、病院にかかればよいと思っている。しかし、大病院で治らない病人が沢山居る。風邪何ぞでも、病院にかかって反ってこじれて治りにくくなることもあるというこ
とを知らない。不幸なことだ。

風邪で熱発しているとき、漢方薬でも解熱させることはできる。けれども、漢方は単に熱を下げる為だけに治療するのではない。病症を基本的に改善させることを目標にしているのだ。

以前、漢方に理解をもっていると思われていた大学教授と対談をした時、その先生が、「対症療法ですね」と言われた。私は、「漢方は随証治療と言って、対症療法とは意味が違います」と説明をしたが、余りお分かりにならなかったらしい。

漢方には、確かに対症療法的な効果がある。熱発していれば、解熱させることが出来る。しかしその場合、単に熱を下げるだけではない。風邪そのものを回復させるような治療方針を立てるからである。いわば、基本的に病症を改善させることを目標にするのである。それを「証を決める」という。

簡約の基本的な効能は、靱帯が保有する自然治癒力を引き出し、増強して、病体を補正するものであり、その過程に於いて、症状を緩和し、解消することが出来るのである。このようなメカニズムで奏功する漢方薬は、現代医学の病名とは必ずしも関連せずに有効なことが多いのである

早い話が、漢方専門の医療施設をおとずれる患者は、例外を除いて皆難症である。その人達が、それも例外を除いて改善するので、その施設が永続しているのである。そうではあるがまた、担当する医師達の腕が大切である。

かつて、漢方を研究中の青年医師が、顔色が悪く、元気がないので、どうしたのかと聞いてみると、「風邪をひいて20日以上経ち、何種類か漢方薬を服んだが、ひどい咳が治らない」という。「夜、よく眠れないのでは」と再度尋ねると、「そうです」との答え。そこで私が、「それでは○○湯を服んでみなさい」と教示しておいた。翌週会った時、「あの薬方を服みましたら、数日で、咳も止まり、風邪気味もすっかり快くなりました」と元気そうに報告された。

1997-8月

医者の感じ方、患者の感じ方

2年ほど前に、いろいろな訴えをもって来た女性に、加味逍遥散を2ヶ月ぐらい投与した。その人は、その後、音沙汰が無かった。

つい最近、その患者が突然来院した。しかも頚にえりまき蜥蜴の様な、厳重な保護帯を巻いている。「どうしました」と尋ねると、「吐き気がして吐き気がして、苦しくて苦しくて」との答え。「頚は痛まないんですか」と再度尋ねると、「頚は動かせませんが、それよりも吐き気がつらくて」という。しかし、首も全く廻せないようである。「事故ですか」とまた尋ねたら、「ええ、自動車で追突されたんです」とのこと。

体格は中肉中背、腹力はやや弱く、女性らしい柔軟さがあり、特別な腹証はない。私は、切診をする前から、使う薬方を決めていたが、腹診の結果でそれを確定した。よし子先生※伝授の回首散である。即ち、烏薬順気散に?活、独活、木瓜(筆者・各3g)日本漢方協会編『実用漢方処方集』の烏薬順気散の脚注にある。『衆方規矩』には「臂痛みてひ(冷)え手甚だなやむには五積散に敗毒散を合して、其の効なきときは此の湯に?活、木瓜を加えて安し」とある。以前、寝ちがえをして首が廻らない女性患者に用いて、一日半で治ったと喜ばれたことがあった。

多分一週間で治るはずだが、余裕をもってと考えて二週間分、その薬方を調剤して渡した。その時、「この薬は不味いですよ、それを我慢しないと、これは治りませんよ」と言い添えておいた。此の薬方は、白姜蚕が入り、強烈な臭いがし、調剤しながらでも辟易する程だし、味もにがいらしいので。

さてその後、どうねるだろうかと、時々ながら思い出しては気にしていたところ、一六日目に患者が再来した。 見ると、蜥蜴の襟巻きはしていないで、首を自由に廻している。「いかがですか」と尋ねると、「まだ腕が上に挙がらないで、挙がらないで」と言って、左腕を水平ぐらい迄挙上してみせた。

「でも襟巻きが取れたじゃないですか」と言ってやると、「それは一週間ぐらい前に取りましたよ。それよりもっと前からよかったんですけどね」という答え。むち打ち症の頭首回転不能は、私の推定通り一週間以内に治ったらしい。しかし、本人は「それは当たり前」というつもりらしくて、「おかげ様で」とは言わない。そのうえ、「吐き気がして、吐き気がして」といった訴えも、一言もいわない。だから私も、ことさら尋ねもしなかった。吐き気が治っていなかったら、それを訴えないはずはないと思われたので。要するに、あれ程さわいだ吐き気は、鎮静したと判断できた。

私自身としては、よし子先生伝授の回首散の効果に、今更ながら驚いたのである。

ある女子学童の患者が、先日、母親に伴われて再来した。母親の言うのには、「手の指に湿疹が出ていて、どうしてもよくならないんです。どんなことしても治らないんです」とのこと。見ると、片手の中指の第一関節と第二関節の間の背面に、ざらざらの皮膚荒れがある。

「なるほどね、此処のところは湿疹ですね」と答えながらカルテを見ると、約二年前から治療しているアトピー性皮膚炎で、初診時は、顔は赤い皮疹が占め、皮が剥けている。鼻炎があって鼻閉もひどいと書いてある。だが、今は顔の皮膚は正常で、肘窩も皮疹がなく、すべすべしている。「でも、顔はきれいになったじゃないですか」と、私は内心、随分よくなったなあ、二年間は無駄じゃなかったなと思いながら口に出した。すると母親は、「汗をかくと痒がります」と、すかさず対応した。

同じ治療結果なのに、医者のみ方と、患者の感じ方は、随分違うんだなと思った。


※高木嘉子先生。三鷹市在住。長年にわたり漢方医学、漢方医療を研究して臨床に従事され、西東京地域での漢方専門医グループのリーダー。日本漢方協会講師団中のお一人。

1997-9月

人の命運(さだめ)

遠い記憶を、ふっと思い出すことがある。最近もこんなことがあった。

昭和十九年三月の末、第五十九期士官候補生として、旧陸軍航空士官学校へ入学した(陸軍では入校といった)。その月の二十日頃、陸軍予科士官学校を卒業し、航空兵科を志望したからである(地上兵科、歩騎砲工は陸軍士官学校へ進んだ)。

入校後の最初の日曜日(だったと思う)、区隊長に引率されて外出した。(陸士はいわゆる全寮生活で、寮を生徒隊隊舎といい、一般の軍隊と同様の生活をした。生徒隊の最小単位が区隊で、三十名余りの生徒。学科ー旧制高等学校理科と同等ー以外の諸訓練から日常生活万般の指導をされたのが区隊長ー数期上の陸士の先輩、時の区隊長は五十四期の大尉だった。陸士も旧軍隊と同様に、休日は学校外へ出ることが許されていて、外出といった。その日は、入校後、初めての外出だったので、区隊長引率となったわけ。)

目的(地)は、当時の所沢飛行場の見学だった。其所で、新型の戦闘機が数機並んでいて、搭乗員の航空将校が、それらを一心に点検していた。その将校達は、中尉の階級章を付けた陸士五十六期生達で、新しい飛行機を、受領に来ている加藤隼戦闘隊の隊員だった。見学に来た我々後輩を、喜んで迎えてくれて、新鋭機の説明を種々とされたあと、希望者を操縦室に乗せてくれたりした。

当時既に、戦争は末期に近く、飛行機も人員も、消耗が甚だしかった。一式戦(戦闘機)と呼ばれた隼の多くを失ったので、その人達が新しい四式戦(戦闘機)を、内地迄受け取りに来ていたわけだが、陸士五六期とは、卒業してまだ二年余りにしかならない若者達だった。その人達が、あの歌にもある有名な、加藤武男少将(当時中佐、戦死後二階級特進)の率いた戦闘機隊のその頃の主力にたっていたわけである。その後、加藤隊長は戦死され、恐らくその人達も、生きて日本へ帰れなかったろう。

ところで私は、戦前の生まれで戦中育ちだった。子供の頃の時代は、「末は大臣、大将に」という社会だった。子供の頃私は、向こう気が強かった。小学一年で、体格は一番小さい方だったのに、一番大きな友達と角力をとって、親戚のお兄ちゃんに教わった腰投げを試みたりしたことと、佐藤君といったその友人の名を、何故か覚えている。

とからが、二年生の秋頃、慢性腹膜炎が発病し、以来長年に亘って病患に苦しむことになった。死線をさ迷うこと数年に及んだが、幸いに、大塚敬節先生という古今の名医に巡り逢えて、先生の漢方治療で健康になることが出来た。しかし、その間、前後八年にも及ぶ年月だった。療養生活の間に、T君という小学校の同級生が、陸軍幼年学校に入ったという風の便りを聞いて、真底羨ましいと思った。「俺も病気さえしなかったら(ようねんがっこうへ)行ったのになあ」と考えたものである。T君とは、小学校の成績も同じくらいだったと思う。

その後のT君については、何も分からないが、順調なら彼は、陸士五六期か五七期生になったはずである。五七期生もまた、航空隊では消耗が甚だしく、航空士官学校卒の搭乗員は、約五八%戦死したと学校史に記載されている。

私が幼年の頃大病に罹らなかったら、多分、初めから軍人の道を選んだだろう。そして多分、戦争を生き残る可能性は、極めて少なかっただろう。いわば病気のお陰で、命を長らえたように思うこの頃である。

1997-10月

人の命運(さだめ)・続 

ところで私は、幼時の大病の為に旧制中学へは、普通の人より二年遅れて入学した。然も当時、
未だ病気は完治していなかったが、大分体調が良いようなので、どうしても学校へ行くと駄々をこねる私に、両親も根負けして、父と姉が、近辺の私立中学へ頼みこんでくれた。幸い、教頭先生(後に校長になられた、素晴らしい教育者だった)が、当時区役所に勤めていた姉の、上司の知人だったので、願いを聞きとどけて受験させてくれた。

入試の数日前に、大塚敬節先生に腹に溜まった腹水を穿刺して採ってもらい、絆創膏を貼ったまま(或いは剥がしたかもしれない)で試験を受けた。ただ、学科試験は出来たらしく、入学を許可された。そればかりでなく、入学早々校長(恐らく教頭)指示で、二組の級長に指名されてしまった。(入試一番の生徒が一組の級長に指名されたとのこと)。これに驚いた父と姉は、すぐさま学校へ駆けつけ、まだ病気が完治していないからと辞退したが、教頭先生は平然として「なーに、よい副級長をつけるから大丈夫ですよ」と、とり合ってくれなかったという。

入学当初は腹膜炎のため、まだ腹部が膨張して脹ていた。そこで、口の悪い同級生から直ぐに渾名をつけられた。「たぬき」と。それでも身体はぐんぐん元気になって、学校を休むこともなく、二年生になった頃は殆ど健康状態で、体操(今の体育)も剣道(当時の正課)も人並みに出来るようになり、二学期頃には体操部と剣道部に入って課外活動までするようになり、何時しか漢方薬も服まなくなった。

四年終了迄、学校は一日も休まず通った。その春、四終(四年終了)で旧制高校の文科を受験することにした。当時はまだ、軍人になるつもりはなく、高校文科から、大学の国文科か史学科へ進んで父の後を撞く気でいた。ところが、入学試験のその朝、突然のように高熱を発し、全身が痛くて苦しく、起き上がることが出来なくなってしまった。やむなく入試は棄権・断念した。

後日、学校へ行ってその事を報告すると、校長(先の教頭)先生が非常に残念がって、「すぐ次の
入試は夏頃、陸士と海兵があるが、どちらか受けてみるかね」と申された。考えてみると、戦争は益々激しく、やがては必ず兵役に服さなければならないと思われた。それなら早いうちからその世界は入ってやれと心に決めて、手近に在る陸士を受けようと考えた。

陸士の試験は、数学が高レベルで難しく、学校で習った程度の私は、半分しか出来なかった。しかし、国語その他の学科は、殆どの解答が分かった。ただ一つ、国語の問題で、「蒙塵(もうじん)」という言葉の意味を知らなかった。だが、幸い合格した。普通の人より二年遅れだったが。

そこで昭和一八年三月の末、陸軍予下士官学校に入校(入学)した。以後、満二年半の軍学校生活を送ることになり、猛烈な訓練と日常生活の中で、理科系の勉強をすることになった。ところが、ところが、昭和一八年秋になって、戦争の様相の激しさの為に、それまであった高校生(
旧制)、大学生の兵役延期の制度が廃止され、兵役の年令に達した生徒、学生は直ちに軍隊へ入隊することになっった。いわゆる学徒出陣である。

そして、学徒兵の多くの人達は、戦場の露と消えた。私が若し、旧制高校文科へ入っていたら、昭和一八年又は一九年には、学徒兵として戦場へ行ったはずである。どうしても私は、人知を越えた大きな力を感じずにはいられない。

1997-11月

柴胡桂枝湯

或晩、夜中に目が覚めた。夢うつつの間に上腹から下腹までの痛みを感じていたが、それが現実と分かった時である。痛みはかなり強い。恥ずかしながら、前日の夕方、気心の知れた仲間が久し振りに集まったので、ついお酒を飲み過ぎた故かと思われた。然し、このような事は、ついぞ無かったのだが、我慢出来ずに、寝床から起き出して診療所の調剤室へ行って、小建中湯のエキス剤を取り出し、一回分を服用した。

腹の痛みは、それで幾分緩和したので、ねむたがりの私は、眠ってしまったが、早朝目覚めた時、矢張り腹が痛んでいた。その痛みは上腹・胃部の辺りに感じられたので、胃炎と考え、清熱解欝湯を煎じて服んだ。

その日一日、同湯をのんでいる間、腹痛は前夜程ひどくはないが、続いていた。その痛みには、緩急があった。翌日も同じ薬をのんだが、痛みは時々発生し、なかなか消えなかった。三日目も、同湯を服用したが、矢張り時々痛みが襲ってきた。

清熱解欝湯を服んだのは、遙か以前に、空腹の時パパイヤを食べて、急性胃炎?になり、胃部急痛を呈したのに、此の薬が著効したことがあったのをお思い出したからであった。しかし、三日目も痛みが続いていた。

困っていた私が、ふと思いついて柴胡桂枝湯エキスを一服のんでみた。すると、その直後に、胃痛が嘘の様に消えてしまった。あれ、あれという感じである。ところが、二,三時間経つと、又、軽度ながら痛みが起きた。そこで、再度、同エキスをのむと、しばらくの間痛みが消えた。

四日目の朝、妻がわざわざ清熱解欝湯煎じてくれた。そこで一服のんだところ、痛みが再燃した。一,二時間様子をみたが、痛みが消えない。そこで柴胡桂枝湯エキスを一服のんでみた。すると少時に痛みが消えた。その日は、同エキスを二回のんだ。

五日目、朝胃部痛は殆どない。が何となく不安で、一日同エキスを二回服んだ。六日目、朝から何ともない。ただ何となく不安で、朝同エキスを一服のんだ。柴胡桂枝湯エキスを三日程のんで、今回のトラブルは鎮静した。

ところで、柴胡桂枝湯(エキス剤ではない)については思い出がある。ずい分以前のことだ。長男がまだ小学校へ上がる前だった。或朝、急に腹痛を訴えた。我慢強い子なので、泣きもせず、ただ身体を海老の様に前へ曲げて横になり、顔をしかめて耐えている。あわてて腹を触診してみたが、子供の腹のことでみあり、特別な所見も得られなかったと思う。そこで、小建中湯やら人参湯などを煎じて次々のませてみたが、余り効き目がなく、小生としてもいささか困惑した。

その日は、夕方、「おじいちゃんに浅草の植木市につれて行ってもらう」という約束があった。痛い腹を押さえながら、息子はどうしても四谷(祖父の家)へ行くといってきかない。已むなく、車に乗せてつれて行った。

おじいちゃん・大塚敬節先生は、息子の腹に触ってひと言、「柴胡桂枝湯をのませなさい」と言われた。早速煎じてのませ、少時見守っている間に、少しづつ楽になるような様子を見せた。息子は植木市はあきらめて、布団に臥て眠ってしまったので、小生が、お供をして浅草へ行き、皐月
を二,三株買って帰った。家へ着くと、息子は目がさめて、起き上がっていて、腹痛は殆ど治っているようだった。勿論、その後一,二日、同湯を飲ませてフォローした。

「外台の柴胡桂枝湯は、心腹卒中痛の者を治す」『金匱要略』腹満寒疝宿食病脈証第

1997-12月

麻黄湯、小青竜湯

数日前、朝食を摂りながらふと見ると、食卓の向こう側に坐って食事をしている小学一年生のお孫(女児)の、鼻孔に水が溜まっている。ハナミズだなと瞬時に感じたので、「"ゆうか"は風邪ひいてるようだよ」と妻に声をかけ、「小青竜湯を服ませなさいよ」とつけ加えた。

食事が終わってすぐ、妻が小青竜湯エキス剤をもって来て服ませていた。間もなく、学校へ行こうとする孫が、玄関を出る時、ごほんごほんと軽いながら咳をしたのが聞こえた。「やっぱり風邪だ」と思われた。 孫が学校から帰ってからは、母親が小青竜湯エキス剤を続けて服ませていたようだ。そして三日後の朝には、孫は変わった様子もみせず、食事をして学校へ行った。風邪は治ったようだった。

年上の孫は、小学四年生で元気もの。十月末日迄、半袖の夏服で登校していたが、十一月からは学校の規則なので、不承不承、冬の制服に着換えて行っている。この姉娘が、幼い頃は、冬になると度々風邪をひいて熱を出した。大抵三十八度余りで、それは桂麻各半湯を煎じて服ませると、一日か二日で解熱して元気になった。

私は子供の熱発には、桂麻各半湯を使うのが常套手段である。この薬方は、虚実中等度から比較的虚証の子供に対応してくれる。

ところで、上の孫ができて約三年後に、下の孫が生まれた。上の孫が活発なのに、下の孫は小さな時からおとなしくて、泣くこともめったになく、多分、母親は育てるのが楽だったろうと思う。この子も矢張り、冬になると、時々風邪で熱発した。

ところが、熱が出ると平素のおとなしさに似合わず高熱を発した。三十九度ぐらいはすぐに出る。私が坐って膝に抱くと、おとなしく抱かれるが、ひどい熱感が伝わるのである。初めこの子に、例によって桂麻各半湯を服ませたが、熱はいっこうに下がらず二日三日と続いた。「おかしいな、困ったな」と思っていたところ、男親(私の長男)はさすがに親で「この子は意外に実証らしいから、麻黄湯にしてみよう」と云ってそれを服ませてみた。

すると驚くほど効いて、翌朝平熱になっていた。孫は二人共同級生の中では小さなほうで、太ってもいないが、体質は違うようである。爾来、下の孫には、熱発の際は麻黄湯を使って事なきを得ている。いずれにしても、風邪をひいたなと見たら直ぐ漢方薬を服ませるので、今は大抵、二,三日で治っている。

それでも、小学校へ入る頃は、時として風邪が直ぐ治らず、咳が長引くことがあった。そういう時は、前記のような調子の咳で、小青竜湯を数日服ませると鎮静した。 

ところで小青竜湯の証は、虚実間乃至やや虚証で、喘鳴を伴う咳が出て、息切れもし、くしゃみやハナミズが多く、喀痰は泡の多い水様のものとなっている。

ところが、私の末娘は、幼少から殆ど病気もせず、親に心配を余りかけない娘だった。しかし、幼い頃は、時として風邪をひいて、咳が長く続いたことがある。熱も出ないのに、乾いた様な咳で、痰も殆ど出さない。子供のことだから、出た痰をのみ込んでしまったかもしれないが。初めは葛根湯、小柴胡湯、華蓋散等を服ませたが、少しも効果がない。困り果てて、念の為と思いながら小青竜湯を服ませたところ、二日ぐらいで咳が止まって元気になった。

その後、娘は咳が少し出ると、調剤室へ一人で行って、小青竜湯エキス剤のボトルを取って、勝手に服むことが度々だった。小青竜湯証の咳に、例外があることを教えられたのである。その娘、今は二歳になる女児の母親になった。

98-1月

五苓散

五苓散については今でも鮮明な記憶がある。その時がいつだったかは忘れてしまった程の以前だった。ある春先、大阪へ嫁入っている妹が、子供をつれて遊びに来ていた或日の晩、診療所から帰宅すると、家族が集まる居間に妹が坐って膝の上に小さい娘を抱いて、おろおろしている。「どうしたのかね」と尋ねるより早く、幼時が「ゲーッ」と嘔吐の声と共に水の様な吐物を勢いよく吐き出し、母親の着物の膝を汚した。

妹が言う、「お昼頃からこの調子で、下痢もするし、熱もあるんです。お水をさかんに欲しがるので、湯冷ましを飲ませたんだけれど、飲むとすぐ吐くんです。子供も私も、持って来た着物が皆んな汚れてしまって、お姉さん(小生の妻)の着物と、えつこちゃん(小生の末娘)の着物を借りてるんです」と。

私はこの様子をひと目見ただけで、「これは五苓散(証」だよ、すぐ煎じてのませなさい と妻に指示した。煎じ薬の出来るのを待ちかねるようにそれをのませると、二十分か三十分経つか経たないうちに嘔吐しそうな様子はぴたりと止まった。翌朝体温は平熱になり、下痢はその日のうちにしなくなった。

此の症例、経験したことが無ければ、私の嘘か法螺だと思うかもしれない。ただ、五苓散の急性証(症)を、私が深刻に銘記したのは、それより数年前に、長男の同様な胃腸型感冒を経験したからである。然もその際はおまけ話がついた。

矢張りある晩、診療所から帰宅すると、当時まだ幼かった長男を、妻が膝に抱いて、同じ状況の中にあった。まだ経験の浅かった私は、いろいろ思案した上で、五苓散証と推定した。そこで、すぐにでも薬を服ませたいと思ったので、自宅診療所の調剤室に入り、茯苓、朮、猪苓、沢瀉、桂枝の五味の生薬を計り、薬研ですりつぶし、メッシュにかけて出来た粉末をすぐにさました白湯で息子に服ませた。効き目の現れるのを今か今かと見つめていたが、さっぱり効果がなく、息子は水をさかんに欲しがり、少し飲ませると、間もなく水様の吐物をちょうど噴水の様にはき出すのである。

困り果てたすえ、息子の祖父に当たる大塚敬節先生に電話で教えを請うた。すると、先生も「それは五苓散だよ、散が効かなければ煎じて飲ませてみな」と指示して下さった。同時に「薬研で粉末を作るには一味づつやらなければだまだよ、振った滓をよくしらべてみな」とも申された。教えていただいた通りに処置したところ、息子の病状は前記の例と同じ様に回復した。あとで残っていたふるい滓をしらべると、猪苓が殆ど残っていた。あわてて薬研を使ったので、粉になりにくい猪苓が残ったのである。息子に服ませた五苓散(粉末)には、猪苓末が入っていなかったことになる。漢方の薬方の厳密さを知らされたことでもあった。

上記の例は、五苓散の普通の使い方で、この薬方はいわばありふれた漢方薬でもある。ところがこの薬には、時としてすごい力を現すこともある。

今、治療中の患者で、脳水腫で歩けなかった人が、五苓散を服ませたら、平気で歩くようになり、一人で診療所へ来ている例がある。以前治療した女子高校生は、歩行不能になって来院したが、五苓散を服用させたら、学校へも行けるようになった。ところが、T大学病院で精査して、脳腫瘍を認められて入院中、五苓散を中止したら、再び歩けなくなり、顔が曲がってしまった。そこで又この薬を使ったところ顔の曲がりが治り歩行もできるようになった。しかし、患者の家族は、大学病院を頼って漢方薬を止めてしまった。その後の経過は分からないが、良いはずはないと思う。ただこれも、その人の運命なのかと暗澹となるのだが。

98-2月

胡蝶の夢の対岸

幕末の或年・旧暦八月二十日、浅田宗伯翁 は老中の命を若年寄より受け、山口駿河守等に伴われて、横浜駐在のフランス公使シュウレー・ミニスートルの診療に向かった。それは、公使が長年の間、戦争に従事したりの、労苦の重責により発した腰脚の痛みが、諸医(西洋医学)の効なく不治の為であった。その人は、陸軍大将であった十八年前に、戦闘の最中、銃弾に当たって倒れた乗馬から落ち、それより発病したものといわれた。

宗伯翁はこのとき、同僚の鍼医和田氏の協力のもとに、漢方薬「桂枝、芍薬、蒼朮、茯苓、附子、甘草、大棗」を処方し、その煎剤を投与した。その結果、公使の病症は次第に改善したので、四日後の二十四日、公使に別れを告げて江戸へ帰った。別れに当たってフランス公使は、翁の手を握って、「(僅かな間に)病苦が半減して喜べに耐えない。(お礼のもうし様もないが)謝礼については本国のフランス王からお贈りするが、自分としては此の恩返しに、この治験をフランスの新聞に掲載させて、日本にかかる名医のあることを五大洲に知らせることにする」と言った。

後日、公使の言った通り、フランス国より翁に、時鳴鐘(置き時計?)とダラ二三巻(本草書?)を贈ったといって来た。しかし、その品は、幕府の役人の手に入ったようだが、自分には銀十錠だけが与えられた と、宗伯翁 がその著『橘窓書影』に記している。

以上の治験は、衆知のことと思うが、改めて記載した。『橘窓書影』にはまた、次のような記述もあるから。

「川路左衛門聖謨(としあきら)(幕末の名吏)の妻が、長年頭痛を患っていた。発症すると薄い胃液を吐き、薬も食事もとれない状態が三四日続き、あと自然に平止する、(偏頭痛発作か?)。青木春岱と伊藤玄朴(西洋医)が交互に治療したが治らないので自分が頼まれて診察し、濁飲上逆(胃内停水の上逆)の頭痛として、当帰四逆加呉茱萸生姜湯と半硫丸を兼用して、長年の病から免れた」と。

また、「天璋院(前将軍夫人)の中年寄(高級官女)歌川が、下腹部に塊りがあって時々激痛を発し、胸へつき上げ、寒熱往来、(悪寒、発熱の去来)し、舌苔あり便秘した。

松本良順(西洋医)が、外感として脚湯をして水薬を投与した処、その夜悪化激症となり悪寒戦慄を発した。翌日、自分が頼まれて診察し、大柴胡湯加茴香甘草を投与したところ大便が通じ、熱と痛が大分減退した。そこで患者は無理して出勤したところ、退出したあと奔豚(激しい動悸)を発したが、金匱奔豚湯で鎮静した。その後、当帰四逆加呉茱萸生姜湯にして、消石大円(下剤)を兼用したところ、数旬(数十日)で下腹の塊が消失し、痛みは再発しなくなった。以来天璋院様が居られる二の丸では、担当医の静春院(戸塚静海)、伊藤瑤川院(伊藤玄朴)、松本良順などの西洋医の治療で治らない後宮(女官)の患者の治療は、皆、自分が頼まれるようになった」と。

宗伯翁がフランス公使に処方した漢方薬の組み合わせは、桂枝加苓朮附湯で、漢方を学んだら知らぬ者もない一般的な処方剤である。当帰四逆加呉茱萸生姜湯にしても同じである。ということは、宗伯翁がすぐれた名医であったことは言うまでもないが、秘薬でない漢方薬がこれ程効くということでもある。

有名な司馬遼太郎氏は、小説『胡蝶の夢(松本順良伝)』で、福知治兵衛(長崎の人)に「唐土の漢方、唐薬で日本に伝わっていないものもある・・・唐土はひろく人が多く、意外な医方、医薬がある。しかしそれらは、それを持つ医家が秘伝として子孫にのみ伝えて決して公開しない」といわせ、主人公松本良順に「漢方はくだらぬ」と言わせている。
司馬氏程の博識な大家でも、漢方の真の姿が見えなかった。残念なことだ。

1998-6月

ルールと方則

最近の不愉快な少年犯罪のニュースを見ていて、ふと、遠い記憶がよみがえった。それは、何十年もの昔、少年だった旧制中学の時だった。或る日、授業が終わって帰り仕度をしていると、二人の同級生が近づいてきて言った。「おい山田、俺達喧嘩するから、お前、立会人になれ」と。見ると級(クラス)で一番背の高いKと、二番目に背の高いYだった。「よし」と答えて私は鞄を持ち、三人連れ立って学校裏のお寺の守へ行った。私が声をかけた。「喧嘩のもとなど聞かんが、卑怯なことはするな、さあやれ」と。卑怯なこととは、助だちや凶器である。

二人は猛然と、殴り合いを始めた。壮絶な争い数刻で、二人共顔が赤黒い打撲痕だらけになったが、Yは鼻血も出て次第に敗色濃厚となり、やがてグロッキー状になったのが分かった。私が大声を上げて、「もうやめろ」と言うと、二人は2,3回殴り合ったあと、ぴたりと手を下した。私が言う「Kの勝ちだ、Yは恨みを残すな」と。そして三人、無言でとぼとぼと歩き、校庭を横切り、校門の前で三方に分かれた。

その数日後だったと思う。朝教室へ着いて鞄を置くと、後から来たKが顔を赤く腫らしているのに気が付いた。「K、また喧嘩か、朝っぱらから」と私が言うと、違うよ、五年生に殴られたんだ とK。私はかっとなって一年上級の五年生の教室へ駆け込んで、そして大きな声で「Kを殴ったのは誰ですか。何故殴ったんですか」と言うと、あっという間に体の大きな悪の上級生、五~六人にとり囲まれた。「何を」と言いながらである。今にも鉄拳の雨が降りそうな雲いきで、私は内心恐ろしくてならなかったが、言ってやった。「校長先生に、下級生に鉄拳制裁してはいかんと言われたばかりでしょう」と。

彼らは揃って、腕を振り上げんばかりの様子だったが、私の両袖口に巻いてある細い二本の白線を見て、「どうしてやろうか」と迷っているらしかった。それは、校長から渡されていた級長の印しのせいだったろう。数刻、無言で睨み合ったが、私も恐ろしいので「今日は校長先生に報告しないけれど、これからは下級生を殴らないで下さい」と言って、早々に引き上げた。怖い経験だった、私の声は振るえていたかもしれない。Kにそのことを言うと、「うん」と言って黙って私の顔を見ていた。

ところで、もう五~六年まえになるが、そのK君が金匱会診療所へ尋ねて来た。十年以上の患いの、尋常性乾癬で、頭から下肢まで、ほぼ全身が皮疹に覆われ、且つ満月様顔貌と皮膚はステロイド皮膚炎が併発していて、傷だらけだった。

この患者には、温清飲加味を用い、三年余りで治癒したので、先に治験報告をした。この症例は、漢薬の効果もさることながら、ステロイドの離脱を、患者自身が進んで行ったからこそ目的が達成されたものと思う。さぞつらかったろうと想像されるが。

健康になったK君は、中小企業ながら会社の社長にもどり、今は後継者(御子息か)に委せて会長になっている。昔の悪餓鬼は、意志強固だし、ルールをよく知っていたものだ。

また此の症例は、漢方の証、陰陽虚実の法則に準じて治療したのであり、漢方治療は、この漢方本来のルールと方則を、よく理解して運用すべきだと思っている。

(注)校長・岩本春市先生、東京文理大卒、立派な教育者だった。私の生涯の恩師。晩年、御逝去迄漢方薬をさし上げた。

98-8月

日本人のふしあわせ・国際東洋医学会学術大会に参加して

去る七月二十四日(金)から二十六日(日)まで(日本日時は二十五日~二十七日に相当)の三日間、米国・ラスベガスのモンテカルロ・リゾートホテル内コンベンションルームに於いて、第九回国際東洋医学会・学術大会が開催された。にほんからも、十五人程の研究者が、遙るばる(と感じながら)参加して、学会の雰囲気にひたって(というより、熱気に圧倒されて)来た。

日本の緩急芍薬甘草湯の発表も何題かあったが、大部分は米国在住の韓国系の韓医師と、韓国本国から参加した韓医師の研究発表であった。台湾からの参加も二十五人程あり、研究発表もあったので、多分、世界各地からの参加者や発表者がいたと思われるが、筆者の目には入らない程のことであった。

というのは、アメリカ合衆国内での学会であるから、会場内は当然英語で満たされるものだと思っていたのだが、驚いたことに、言語は殆ど韓国語が行き交っていて、発表も殆どが韓国語で行われていた。英語の発表を筆者が聞いたのは、日本と一部台湾の研究者のものであった。

何故、此の様な状況になったのかを考えてみた。その第一は、韓国の本国から、150人もの多数の韓医師が参加したことに依ると思われる。(日本からの参加者は、その十分の一であった)。此の韓国パワーに、筆者は正に圧倒されたのである。

然しながら一面ではまた、更に感動することがあった。それは、開会式・セレモニーの始めに、全員が起立して、設置してあったアメリカ合衆国国旗に、敬意を表する儀式を行ったことである。此のことは、韓国や台湾で開かれた学会でも、見たことだったが。今、日本人は、国家を忘れ、国旗、国歌を否定するのが、進歩的思想だと考えているようだ。しかしそれによって、大きな不幸に繋がっていることを知らない。

韓国ソウルの学会へ、初めて行ったのは、随分昔のことになったが、その時、韓国韓医師(その頃は漢医師と言っていたと思う)の一人が、こういうことを笑い話のように話してくれた。「韓国の民衆は、病気になると、先ず韓医師にかかります。大抵は治るけれど、治らないような重病になると病院へ行きます。そして入院することになると、一族全員が集まって、泣きながら水杯をして送るのです」と。今でもそうなのか、真偽のの程は知らないが、韓国民衆の、漢方に寄せる信頼の程が分かるように思う。

翻って日本のことを考えてみよう。風邪を引いてもすぐに行くのは近所の医師で、出来れば大学病院まで行ってしまう。しかし、現代医学には風邪の薬はない。だから、抗生剤、解熱鎮痛剤、等を投与される。そして治るのに何日もかから。こじれれば一月以上も遷延する。

これを、漢方で正しい治療をすれば、引いたばかりの風邪なら一服で長くても二・三日で治る。うそではない。慢性の難病、難症も、漢方治療で快復、延命する例は幾らもある。筆者自身多くの症例がある。浅田宗伯翁の治験を持ち出すまでもない。

漢方医学、医療の常識は、現代医学の常識外、いわば非常識なのだ。だから、漢方医学に行為を持った学者でさえ、「漢方の限界は此處迄」などと云う。筆者は常に云っている。「それは、その人の限界。漢方には無限の可能性がある。但しその可能性は、医者の精進、錬磨によって引き出されるのだが」と。

漢方に対する常識も信頼も、日本人は明治以後失ってしまった。不幸なことである。そして今、国家を忘れようとしている。大きな不幸である。

98-9月

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