人の命運(さだめ)

遠い記憶を、ふっと思い出すことがある。最近もこんなことがあった。

昭和十九年三月の末、第五十九期士官候補生として、旧陸軍航空士官学校へ入学した(陸軍では入校といった)。その月の二十日頃、陸軍予科士官学校を卒業し、航空兵科を志望したからである(地上兵科、歩騎砲工は陸軍士官学校へ進んだ)。

入校後の最初の日曜日(だったと思う)、区隊長に引率されて外出した。(陸士はいわゆる全寮生活で、寮を生徒隊隊舎といい、一般の軍隊と同様の生活をした。生徒隊の最小単位が区隊で、三十名余りの生徒。学科ー旧制高等学校理科と同等ー以外の諸訓練から日常生活万般の指導をされたのが区隊長ー数期上の陸士の先輩、時の区隊長は五十四期の大尉だった。陸士も旧軍隊と同様に、休日は学校外へ出ることが許されていて、外出といった。その日は、入校後、初めての外出だったので、区隊長引率となったわけ。)

目的(地)は、当時の所沢飛行場の見学だった。其所で、新型の戦闘機が数機並んでいて、搭乗員の航空将校が、それらを一心に点検していた。その将校達は、中尉の階級章を付けた陸士五十六期生達で、新しい飛行機を、受領に来ている加藤隼戦闘隊の隊員だった。見学に来た我々後輩を、喜んで迎えてくれて、新鋭機の説明を種々とされたあと、希望者を操縦室に乗せてくれたりした。

当時既に、戦争は末期に近く、飛行機も人員も、消耗が甚だしかった。一式戦(戦闘機)と呼ばれた隼の多くを失ったので、その人達が新しい四式戦(戦闘機)を、内地迄受け取りに来ていたわけだが、陸士五六期とは、卒業してまだ二年余りにしかならない若者達だった。その人達が、あの歌にもある有名な、加藤武男少将(当時中佐、戦死後二階級特進)の率いた戦闘機隊のその頃の主力にたっていたわけである。その後、加藤隊長は戦死され、恐らくその人達も、生きて日本へ帰れなかったろう。

ところで私は、戦前の生まれで戦中育ちだった。子供の頃の時代は、「末は大臣、大将に」という社会だった。子供の頃私は、向こう気が強かった。小学一年で、体格は一番小さい方だったのに、一番大きな友達と角力をとって、親戚のお兄ちゃんに教わった腰投げを試みたりしたことと、佐藤君といったその友人の名を、何故か覚えている。

とからが、二年生の秋頃、慢性腹膜炎が発病し、以来長年に亘って病患に苦しむことになった。死線をさ迷うこと数年に及んだが、幸いに、大塚敬節先生という古今の名医に巡り逢えて、先生の漢方治療で健康になることが出来た。しかし、その間、前後八年にも及ぶ年月だった。療養生活の間に、T君という小学校の同級生が、陸軍幼年学校に入ったという風の便りを聞いて、真底羨ましいと思った。「俺も病気さえしなかったら(ようねんがっこうへ)行ったのになあ」と考えたものである。T君とは、小学校の成績も同じくらいだったと思う。

その後のT君については、何も分からないが、順調なら彼は、陸士五六期か五七期生になったはずである。五七期生もまた、航空隊では消耗が甚だしく、航空士官学校卒の搭乗員は、約五八%戦死したと学校史に記載されている。

私が幼年の頃大病に罹らなかったら、多分、初めから軍人の道を選んだだろう。そして多分、戦争を生き残る可能性は、極めて少なかっただろう。いわば病気のお陰で、命を長らえたように思うこの頃である。

1997-10月

人の命運(さだめ)・続 

ところで私は、幼時の大病の為に旧制中学へは、普通の人より二年遅れて入学した。然も当時、
未だ病気は完治していなかったが、大分体調が良いようなので、どうしても学校へ行くと駄々をこねる私に、両親も根負けして、父と姉が、近辺の私立中学へ頼みこんでくれた。幸い、教頭先生(後に校長になられた、素晴らしい教育者だった)が、当時区役所に勤めていた姉の、上司の知人だったので、願いを聞きとどけて受験させてくれた。

入試の数日前に、大塚敬節先生に腹に溜まった腹水を穿刺して採ってもらい、絆創膏を貼ったまま(或いは剥がしたかもしれない)で試験を受けた。ただ、学科試験は出来たらしく、入学を許可された。そればかりでなく、入学早々校長(恐らく教頭)指示で、二組の級長に指名されてしまった。(入試一番の生徒が一組の級長に指名されたとのこと)。これに驚いた父と姉は、すぐさま学校へ駆けつけ、まだ病気が完治していないからと辞退したが、教頭先生は平然として「なーに、よい副級長をつけるから大丈夫ですよ」と、とり合ってくれなかったという。

入学当初は腹膜炎のため、まだ腹部が膨張して脹ていた。そこで、口の悪い同級生から直ぐに渾名をつけられた。「たぬき」と。それでも身体はぐんぐん元気になって、学校を休むこともなく、二年生になった頃は殆ど健康状態で、体操(今の体育)も剣道(当時の正課)も人並みに出来るようになり、二学期頃には体操部と剣道部に入って課外活動までするようになり、何時しか漢方薬も服まなくなった。

四年終了迄、学校は一日も休まず通った。その春、四終(四年終了)で旧制高校の文科を受験することにした。当時はまだ、軍人になるつもりはなく、高校文科から、大学の国文科か史学科へ進んで父の後を撞く気でいた。ところが、入学試験のその朝、突然のように高熱を発し、全身が痛くて苦しく、起き上がることが出来なくなってしまった。やむなく入試は棄権・断念した。

後日、学校へ行ってその事を報告すると、校長(先の教頭)先生が非常に残念がって、「すぐ次の
入試は夏頃、陸士と海兵があるが、どちらか受けてみるかね」と申された。考えてみると、戦争は益々激しく、やがては必ず兵役に服さなければならないと思われた。それなら早いうちからその世界は入ってやれと心に決めて、手近に在る陸士を受けようと考えた。

陸士の試験は、数学が高レベルで難しく、学校で習った程度の私は、半分しか出来なかった。しかし、国語その他の学科は、殆どの解答が分かった。ただ一つ、国語の問題で、「蒙塵(もうじん)」という言葉の意味を知らなかった。だが、幸い合格した。普通の人より二年遅れだったが。

そこで昭和一八年三月の末、陸軍予下士官学校に入校(入学)した。以後、満二年半の軍学校生活を送ることになり、猛烈な訓練と日常生活の中で、理科系の勉強をすることになった。ところが、ところが、昭和一八年秋になって、戦争の様相の激しさの為に、それまであった高校生(
旧制)、大学生の兵役延期の制度が廃止され、兵役の年令に達した生徒、学生は直ちに軍隊へ入隊することになっった。いわゆる学徒出陣である。

そして、学徒兵の多くの人達は、戦場の露と消えた。私が若し、旧制高校文科へ入っていたら、昭和一八年又は一九年には、学徒兵として戦場へ行ったはずである。どうしても私は、人知を越えた大きな力を感じずにはいられない。

1997-11月

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