人の命運(さだめ)・続 

ところで私は、幼時の大病の為に旧制中学へは、普通の人より二年遅れて入学した。然も当時、
未だ病気は完治していなかったが、大分体調が良いようなので、どうしても学校へ行くと駄々をこねる私に、両親も根負けして、父と姉が、近辺の私立中学へ頼みこんでくれた。幸い、教頭先生(後に校長になられた、素晴らしい教育者だった)が、当時区役所に勤めていた姉の、上司の知人だったので、願いを聞きとどけて受験させてくれた。

入試の数日前に、大塚敬節先生に腹に溜まった腹水を穿刺して採ってもらい、絆創膏を貼ったまま(或いは剥がしたかもしれない)で試験を受けた。ただ、学科試験は出来たらしく、入学を許可された。そればかりでなく、入学早々校長(恐らく教頭)指示で、二組の級長に指名されてしまった。(入試一番の生徒が一組の級長に指名されたとのこと)。これに驚いた父と姉は、すぐさま学校へ駆けつけ、まだ病気が完治していないからと辞退したが、教頭先生は平然として「なーに、よい副級長をつけるから大丈夫ですよ」と、とり合ってくれなかったという。

入学当初は腹膜炎のため、まだ腹部が膨張して脹ていた。そこで、口の悪い同級生から直ぐに渾名をつけられた。「たぬき」と。それでも身体はぐんぐん元気になって、学校を休むこともなく、二年生になった頃は殆ど健康状態で、体操(今の体育)も剣道(当時の正課)も人並みに出来るようになり、二学期頃には体操部と剣道部に入って課外活動までするようになり、何時しか漢方薬も服まなくなった。

四年終了迄、学校は一日も休まず通った。その春、四終(四年終了)で旧制高校の文科を受験することにした。当時はまだ、軍人になるつもりはなく、高校文科から、大学の国文科か史学科へ進んで父の後を撞く気でいた。ところが、入学試験のその朝、突然のように高熱を発し、全身が痛くて苦しく、起き上がることが出来なくなってしまった。やむなく入試は棄権・断念した。

後日、学校へ行ってその事を報告すると、校長(先の教頭)先生が非常に残念がって、「すぐ次の
入試は夏頃、陸士と海兵があるが、どちらか受けてみるかね」と申された。考えてみると、戦争は益々激しく、やがては必ず兵役に服さなければならないと思われた。それなら早いうちからその世界は入ってやれと心に決めて、手近に在る陸士を受けようと考えた。

陸士の試験は、数学が高レベルで難しく、学校で習った程度の私は、半分しか出来なかった。しかし、国語その他の学科は、殆どの解答が分かった。ただ一つ、国語の問題で、「蒙塵(もうじん)」という言葉の意味を知らなかった。だが、幸い合格した。普通の人より二年遅れだったが。

そこで昭和一八年三月の末、陸軍予下士官学校に入校(入学)した。以後、満二年半の軍学校生活を送ることになり、猛烈な訓練と日常生活の中で、理科系の勉強をすることになった。ところが、ところが、昭和一八年秋になって、戦争の様相の激しさの為に、それまであった高校生(
旧制)、大学生の兵役延期の制度が廃止され、兵役の年令に達した生徒、学生は直ちに軍隊へ入隊することになっった。いわゆる学徒出陣である。

そして、学徒兵の多くの人達は、戦場の露と消えた。私が若し、旧制高校文科へ入っていたら、昭和一八年又は一九年には、学徒兵として戦場へ行ったはずである。どうしても私は、人知を越えた大きな力を感じずにはいられない。

1997-11月

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